by ヒカリ
楽茶碗にしろ、漆器にしろ、日本庭園にしろ、その姿がなんとも味わい深く、美しいなぁと眺める。
どれも良い味わいが出ているものは、まず、使う側がそのものを好きで、扱いを雑にしない。何でもかんでも食洗機に突っ込むのではない、それぞれに扱い方がある。
そして何十年何百年と、人々にそのようにじっくりと丁寧に扱われながら受け継がれ、現代に至り、すばらしい評価を得ている。
昭和の宮大工と呼ばれている、故西岡常一さんをご存知だろうか。その方を中心に奈良の薬師寺金堂が建てられたときの逸話のひとつをざっくり要約してご紹介する。
完成間近、お弟子さんが「屋根の反りが設計図と違う」と指摘したそうだ。
西岡さんは、あえてそうしたのだ、と応えた。
「屋根の重みと地球の引力で、梁が中心から僅かにひわる。それで500年後、屋根の反りが設計図通りになる。その時になって初めて、この建物が完成するんだ」
だから、自分達が建てたものの完成は、絶対に見ることができないと言うのだ。
その屋根の反りが現れたときは、鳳凰が羽根を広げるが如くの美しさなのだろうな…と、同じく完成を見ることができないわたしは、薬師寺金堂の前で、その姿を心で見て涙した。
時を経ることは、日本人が大切にして来た美のひとつではなかろうか。
完成したときが最も美しいものは、経年劣化し、わたしたちが生きている内にみるみる美しさを失う。そのものの行く先はどこだろうか。
日本の在来建築や工芸品は、そもそもが自分の次世代以降も使うものとして作っていた。
丁寧に扱い、丁寧に育てる。
だから、経年変化を遂げて、そのものがより独特の成長をし、次に受け継がれて行く。
いい景色ですね、と言えるようになるには、時代を越えることが必須な場合もある。
丁寧に扱い、丁寧に育てる。
使う、ただし、疎かにしない。
それこそが、美しさを際立たせて行くばかりでなく、そのものの寿命を延ばしているのだ。
これは、自分にも当てはまるのではないだろうか。
果たしてできているのかを問うと、お恥ずかしいばかりなのだが、ひとつでも、そのように自分を扱いたい。
そして、自らも美しい経年変化を遂げたい。
それが、美しく年を重ねる、ということに繋がるのではないかと感じる。
何世代にも渡って磨かれた大黒柱や、茶の渋みが染み着いた釉薬のひび。重ねられた漆が擦れて出た、下地の出具合。
そこにしかない、オリジナルを愛でる。
その美を愛でるという心が、物の扱いを通して、次世代へ、更に次の世代へ、と受け継がれて来たのだ。
そして、そのものがどう素晴らしいかを、言葉で相手へ説明したり、理解を求めたりは、あまりしない。
何故ならば、相手がそれを見て、それを持って、どう感じるか、どう受け止めるかを大切にしたからである。
美とは評論するものではない。ただ、感じるものなのだ。
日本にはその風土と基盤があり、わたしたち日本人の遺伝子には、その心が確実に刻まれている。
日本が、美しい文化を持っているところであること、わたしたちにはその魂の記憶があるということを、少しでも感じて頂ければ嬉しい。
そのような小話を、ここでは、していこうと思う。
ヒカリのプロフィール:
京都在住の作家の卵兼ライター。登山好きで在来建築の大工の父、自然療法と茶道をかじった母のもとで、山や海、日本文化に触れて育つ。他に服飾デザイナークリエイターなどで活動中。
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