京都に移住してから、おかげさまで様々な人の話を聞くことができている。
私が心を熱くすることは、日本古来のとか、日本文化の、とかサブタイトルに「日本」と付くことが多い。
しかし、憧れと現実のギャップは多々ある。京都の町家が素敵だと思っていると、「夏は暑くて冬は寒いし、暗い」「木に趣があるのは分かるが、防犯、寒暖の差、湿気対策、維持管理にはサッシの方が楽」と聞く。生活は今住まわれている方の現実であると共に、時代の流れが背景にあるのだと感じる。
床の間を潰してクローゼットにすると、洋服に慣れた現代人にとっては使い勝手もいいし、庭を潰して部屋を増築すると居住空間が増え、パーソナルスペースは増えたかに思える。
ではなぜかつての日本家屋には、床の間や庭が小さくとも必ずあったのか。
私はこれに関しては文献を読んだわけではないので、憶測を含むことを承知して頂きたい。
床の間は掛け軸、花、皿、壺と、季節の移ろいを感じさせるものが飾られた。
どれも季節や家の行事に合わせて選び、花器や掛け軸などは代々家に伝わる物が多かった。
飾られたもの以外は、空間である。
この空間こそが『肝』だと、日本人は無意識に知っていたのだ。
空間があるからこそ、掛け軸や生けた花が引き立ち、注目が行く。
これは無が有を産んだ瞬間である。
花を目にした後、ああ、落ち着きますね、と他に余計な物が何もない部屋にくつろぐ。
これは、有が無を産んだ瞬間なのだ。
何もなければ、何かがある意味を気が付けない。
物ばかりが詰め込まれていると、何もないことの意味に気が付けない。
庭を見る、内にいながら、外と繋がっていることを感じる。
その庭の春夏秋冬移り変わり行く景色を、窓という額縁で切り取って絵画のように愛でる。
その心が整う時間こそが、心の余裕を産み出す。
無意識に、無から有を、有から無を産み出している。
両極はどちらもバランス良く中庸でこそ存在し合う。
有と無。
無である空間こそが、何かを産み出す元であると、無意識に知っていたからなのだ。
現代の詰め込み式は、確かに高度経済成長に繋がった。
だが、裏では多くの問題をも産み出している。
物はもうすでに、この世に溢れかえっている。
断捨離がブームになった反面、中には必要なものまで捨ててしまったと悔やむ話も耳に入る。しかし、これらはやったみないと丁度が分からない。
ある問題の解決策やきっかけを探していて、連日考え続けても見つからなかったが、湯船に浸かってほっとしたときに、急に閃いたという話もよくある。
何かを産み出すには、空間や余裕というスペースが必要なのだ。
今、あなたに必要なのはどちらが、どれほど、であるだろうか。
先述のお宅は、床の間は致し方なく潰したが、玄関に代わりになるスペースを新たに設けたという。床の間ほど気取らなくて良く、季節の花を飾るのが楽しみになったそうだ。
答えとは、自分自身の中にしか、見出だせないものである。
ヒカリのプロフィール:
京都在住の作家の卵兼ライター。登山好きで在来建築の大工の父、自然療法と茶道をかじった母のもとで、山や海、日本文化に触れて育つ。他に服飾デザイナークリエイターなどで活動中。
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